鹿妻獅子踊りの歴史
鹿踊り(宮城県史 神楽舞踊より)
猪・鹿・龍等の頭をいただき、背に神籬を負い、腰の太鼓を打鳴らしながら、三頭或はそれ以上の者が花々と狂う獅子舞・獅子踊・鹿(しし)踊等と呼ばれるものが、信州から津軽に至るもとの東山道を、巾広に分布している。主として盆或は秋祭り(稀には春の彼岸にも)に踊られるが、供養の踊とも悪魔払とも言われている。本県にも諸方に行なわれている。
附記 この風流の獅子舞は、古く伎楽・舞楽に由来する二人立の獅子舞とは区別される。
信州以西には風流の獅子は、特別の箇所を除いては行なわれていない(四国の宇和島附近にある八つ鹿踊は藩主伊達秀宗が移封のとき仙台より移したものという。
所伝はこの鹿妻のものなどとも殆ど同じである)。然し、しし頭を頂かないというだけで、花笠や鉢巻で背に神籬を負い、腰の太鼓を打鳴らし、風流歌をうたいながら大勢で踊る踊は、九州の果にまで行なわれている。これを太鼓踊の名に総称し得るが、ここにいう風流の獅子舞は、即ちこの太鼓踊の一種という事が出来る(太鼓踊は、田楽に出たと思われる)。
桃生群矢本町鹿妻(現東松島市鹿妻)の鹿踊り(ししおどり)
桃生群矢本町鹿妻の鹿踊は、三十年程中絶していたのを、大正末年に復興した。先の中立は既に没していたが、もと踊子の一人であった桜井広吉氏(七十余歳)により辛うじて残し得たものである。鹿踊の由来や式の事を誌した巻物も、前中立の家にはある筈というが、今の中立には伝えていない。
桜井氏によると、鹿妻の北一里程の小松に古くからあったのを、六十年前(明治初年)に、巻物諸共移したものという。流儀を「奥山行山流八つ鹿踊」といい、伊予宇和島のは藩主分家のとき、こちらのものを伝えたものと言われている。志田郡松山村のがもとと言い、行山流とは、伊達政宗の御覧に供したとき、「げうさん也」とのお褒詩を賜ったものがもとという。鹿幕につけている伊達家の紋抱茗荷に九曜の星も、この時賜ったもので、そのため、鹿踊の組が通ると、武士も紋に敬意を表して下馬したと言われる。尤も、行山・行参等と書き、幕に九曜の星を染め抜いている鹿踊は、ひろく陸中の方にも行なわれている。
今は旧三月十九日及び九月十九日の鹿石神社の祭に、先ず神社の境内で舞い、次に氏々の家々を門毎にはねてまわるが、もとは盆あそびに、「ばんがく」とて踊り歩き、殊に盆の三日を大いに踊った。旧七月七日に「幕はじめ」或は「そろい」と称して稽古はじめをし、十月十日を幕納めといって踊納めをした。この踊納めには、朝から夜おそくまで人々を招待し、所伝の踊全部を演じ、最後に「納め踊り」というのを踊った。これは棚を設けて注連縄をめぐらし、四垂を下げ、この棚の上に羽織袴の師匠の者が坐し、
〽今年来年また来年 心静かに遊べ友達
と歌うと、八頭の踊子達は、銘々手に弓矢を持ち、しまいにこれを八方に射るという式であった。餅も撒いた。
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最終更新日:2014/10/28